☆ エッセイ‐Ⅰ
◆ ワルツとコルチゾン
「ピアノ」の詩人ショパン、彼は数多くのワルツ曲を世に残しました。その調べは優雅で気品にあふれ、色々なドラマを私たちの脳裏に蘇らせてくれます。鹿野館で踊る貴族たちの姿、オードリヘップバーンがマイフェアレディの中で踊ってみせた軽やかなステップ・・・、まさにワルツは私たちをmerry-go-roundの世界に誘います。
そのショパンのレコードの中で、特にお薦めしたいCDがあります。天才ピアニストと絶賛された、リパッティ演奏のショパンワルツ集で、最高傑作の一つとされています。(CD:EMI Angel CC33-3519)。リパッティは1917年にルーマニアに生まれました。その才能は天才と称されるにふさわしく、4才で慈善公演を行い、ブカレスト音楽院に特別入学が許可されるほどでした。その後、彼の完成と技術はより一層研ぎ澄まされ、17才の時国際ピアノコンクールに出場、結果は2位に入賞しました。しかしその時、審査員コルトーは審査結果に「許しがたい誤審だ!彼の演奏こそが優勝に値する」と憤慨し、即時審査員を辞任したとほどでした。そのような彼にデュカスは「我々に教えることは何一つない」と語り、プーランクは「神々しい精神性を持つ芸術家(Kunstlers von Gottlicher Geistligkeit)」と賛辞を送りました。
しかしそんな彼に、静かに忍び寄る黒い影・・・、彼は不治の病に侵されてしまったのです。演奏旅行にもドクターストップがかかりはじめるようになり、1949年には病魔が急激に彼を衰えさせはじめたのです。その頃、アメリカで発見されたばかりのコルチゾンの注射が、病状の進行を遅らせるのに効果があることがわかり、彼にとって唯一の希望となったのです。しかし、新薬のコルチゾンは非常に高価で、注射代は当時で1日50ドルもかかりました。その窮状を伝え聞いたミュンシュやメニューインなどの音楽家や、彼の才能に魅了された匿名の好楽家たちから、相次いで善意による多額の支援金が集まり、たちまちのうちになんと何カ月分のコルチゾンが確保されるまでにいたったのです。
コルチゾンの効果により彼の病状は1950年5月頃から小康を保ち、ピアノ演奏の収録が許可されるようになりました。しかし関係者の間では「コルチゾンの効果もせいぜい2カ月」という危機意識が流れ、彼の最後になるかもしれない収録に相応して、最高のセッテングが急ピッチで行われたのです。録音はスイスのラジオ・ジュネーブに決定。ピアノはハンブルグのスタインウェイ本社でコンサートグランドが特別に作られました。録音装置は仏HMVが米コロンビアに貸与中の最新型装置を急遽スイスに回送させるなどし、当時の最高水準のセッティングが実現したのです。
天才リパッティのために、数多くの関係者の努力と協力によって1950年7月、2週間にわたりEMIで収録されたのが、この「ショパンワルツ集」のCDです。収録中彼は病魔に蝕まれていく身体を横たえることなく、そして笑顔を絶やしませんでした。それは彼を支えてくれた総ての人たち・輝く太陽・どこまでも蒼い空・スイスの夏の自然・・・、彼をとりまく総てのものに感謝するかのようでした。
「完全にマスターした曲でなければ公開の席では絶対に弾かない」彼のPerfectionismは最後の最後まで変わることはありませんでした。それゆえ1音符でも疑問の残る曲はプログラムに載せることはなかったのです。収録中の彼は細心精緻を極め、納得するまで何度でも弾き直す彼は、まさに「命と引き替え」そのものだったと言われています。
収録を終えた同年9月、フランスのブザンソン音楽祭でリサイタルが開かれました。この時すっかり衰弱し、歩く事さえやっとの彼は、「約束を果たしたい」という一念で周囲の反対を押し切り、舞台に上がったのです。その時の彼の弾くショパンのワルツ、その調べは変わることなく気品に満ち、あふれる感性で聴衆を魅了しました。しかし13曲目まで弾いたところで遂に力尽き、もう二度と鍵盤にふれることはなかったのです。享年33才、あまりにも早い天才の死。病名は「白血病」でした。
このワルツを聴くたび、崇高で神秘的な宇宙のイメージが私の身体を包み込みます。リパッティの芸術は、これからもずっと私たちの心の中に一筋の光を灯してくれることでしょう。
◆ ドレミと進化
前回はショパンのワルツの話をしましたが、そもそもどうして音楽がこの世にあるのでしょうか」?ギリシャ神話に登場する芸術の神「ミューズ」がamusementとして私たち人類に授けてくださったのかもしれません。それでは、地球以外の惑星には、果たして音楽はあるのでしょうか?
「宇宙へ向かってレコードを載せたロケットが発射された」とのニュースが以前に紹介されていました。そのレコードは金で作られており、銀河系内の地球の場所を伝えるほかに、地球の地理、言語、生活など人類からの様々なメッセージが含まれています。さらに、その中には文化の一つとしてベートーベンの音楽も収録されているとのこと。遠い惑星で高い文明を持つ生物がこのレコードを手に入れたら、その星のコンピューターで解析して地球の音楽を聴いているかもしれませんね。でも、地球の音楽の音階をちゃんと読み取れるかどうか不安です。
私たちが通常聴く音楽は、1オクターブの中に12個の音がある音階を使っています。現代音楽の中には、1オクターブの中に、19個、31個、43個、53個の音がある不可思議な音階もあるようですが、私は12個でよかったと思います。もし、53個もあるとすれば、ピアノを弾くことが好きな私たちにとって、鍵盤があまりに多すぎて困ってしまいます。そして、世界最高のピアニストは、間違いなく千手観音になってしまいますよね・・・。
それにしても、なぜ12個になったのでしょうか?これは、かの有名なピタゴラス(直角三角形の辺の長さの定理を見つけた彼)が、この音階を作ったのです。余談になりますが、小学校の理科の実験で「琴」を作ったように記憶しています。紙の箱にピンと張った糸を付けた物で、コマの位置によって音程が変わるというものでした。最初の長さの音を「ド」とすれば、糸の長さが1/2になれば、1オクターブ上の「ド」になります。2/3では「ソ」、3/4では「ファ」、4/5では「ミ」の音になるということを皆さんは知っていましたか?どうです、不思議ですね!もしかしたら、ピタゴラスは、宇宙の
かなたの光輝く星から派遣されて、音楽の基礎を地球に伝えてくれたのかもしれませんね。
宇宙のイメージを表現した曲があります。題名は「ミクロコスモス」で、近代作曲家バルトークが子供のために作曲したピアノ作品集です。全6巻で総計153の小曲から構成されており、誰でも簡単に弾けます。5拍子や7拍子の曲、長調か短調かわからない曲、右手と左手の調が違う曲、など子供から大人まで楽しめる作品で、現代音楽に対する感性が磨かれます。羽田健太郎が演奏したCD(BY38-3:1,4,5巻、APCC-1:2,3,6巻)なども出ています。内容は「大宇宙」的ですが、バルトークが控えめな性格であったのか、「ミクロコスモス」と名づけたとのことです。
さて、私は先日、「マクロコスモス」という曲にたまたま遭遇しました。最近トピックスとなっているα波ミュージックに関連した音楽です。CDの表題は「θ波:リラクセーションのためのメンタル・コントロールーFlying Version」です(APCE-5282, Apollon, 1993年)。この曲を聴くと、フワフワと宇宙遊泳しているような気分になってきます。
「マクロコスモス」が大宇宙であれば、「ミクロコスモス」は小宇宙であり、人間の身体そのものであると比喩されています。身体を造る細胞をミクロの世界まで小さくしてとらえた時、宇宙の構成とよく似ているからなのでしょう。私たちの身体の中には、宇宙があると言えるのです。不思議ですが何となくロマンティックですね。
宇宙には数え切れない星や惑星、星雲があります。それらが、時には静かに、時には大爆発を起こしながら、バランスを保っています。身体の中に宇宙を持った私たちのとって、細胞の一個一個、遺伝子の一個一個が星雲や星に相当するのでしょうか?これらが、f分の1「ゆらぎ」のごとく、規則性と意外性のリズムをうまく奏でる音楽家として、宇宙の膨張や、生物の進化をうまく指揮しているのかもしれませんね。
◆ 潜在意識とオルゴール
先日、映画誕生百周年記念作品である「RAMPO」(松竹1994)を見た。主人公は江戸川乱歩自身。乱歩は彼の分身たる明智探偵として、「イマジネーションは現実の何物よりも強い」というテーマを追いかけつつ、自分の小説の世界に入りこんでしまう。
ポスターには「この映画には3つの特殊な効果がございます」とある。乱歩らしいフレーズだが、映画によってその謎が解きあかされていく。1つめは「サブリミナル」な効果である。特定の映像を映画に知覚できないほど瞬間的に挿入しており、コーラやポップコーンの売上を伸ばすために使用されたことがある。人間の潜在意識のレベルを刺激して、本能や感情に直接訴える手法だ。2つめは「1/fゆらぎ」である。fはfluctuation,frequencyの頭文字で、振動、ゆらぎ、周波数を意味する。これは、視聴覚的に「ここちよさ」を感じる映像や音には、ある特徴があることを明らかにした理論である。映画の中では映像と音に1/f模様がデザインされ、快感を呼び起こす。3つめは「フレグランス」だ。人間の五感(視覚、聴覚、味覚、触覚、臭覚)の中で、最も不鮮明とされる嗅覚に働きかける。フェロモンを含んだ香りを劇場に流すことにより、我々を画面の中に引きずり込んでゆく。歴史上、最高の美女といわれるクレオパトラはじゃ香に魅いられた女性の一人であった。9世紀の医学者はじゃ香の効能として、催淫効果に加えて、発汗促進、強心作用、気力の充実など、健康の維持増進にも役立つと述べている。最近、植物の抽出物や香りを用いたアロマセラピー(芳香健康法)が話題となっている。ミントは疲労を回復し、ラベンダーは不安を解消し、ジャスミンによって人は幸福感に包まれるという。
これらの特殊効果のためだろうか?確かに、「RAMPO」は私の理性と感情を大きく揺さぶり、私を映画の虜にしてしまった。ストーリーでは動と静、毒薬と媚薬、映像では喧騒と静寂、規則性と意外性、また音楽では和音と不協和音、オルゴールとオーケストラなどがコントラストをなして映画の中で複雑に絡みあっている。
私たちのイマジネーションは、音楽により大きな影響を受ける。映画のBGMにはいろんな工夫がみられ、リズムでは、4拍に1度擬似音を入れたり、心臓の拍動に似せた音を次第に大きくしたりして、観客の心と身体にプレッシャーをかけてくる。ミステリアスな旋律を分析すると、メロディーは完全5度、増4度、長3度、2度の音幅をもって流れていた。そして、落ちつく和音と不安定で未解決の和音をうまく用いている。これらは快と不快を交互に感じさせる目的なのだろう。
また、オルゴールの音色は「甘いささやき」や「やすらぎ」をイメージするものだが、使う場面によっては、より一層、不安や恐怖を感じさせるものとなりうる。映画を見た人がその音色を聴いた時、そのシーンが思い出されて背筋が寒くなるかもしれない。このように、映像と音楽が一体となって潜在意識の中にインプットされ、音楽を聴くだけでその情景が脳裏に甦ってくる。まさに、音楽は意識をも支配してしまうのだ。
映画の中に、編集者である横溝正史が登場し、「先生の小説は、現実をも動かしてしまうのですよ」と乱歩に語りかける場面がある。その言葉に私は、「もしかしたら、我々のイマジネーションは、現実の何物よりもとてつもなく大きなパワーで、未知なる世界でさえ現実化させてしまうのだろうか」と思わず息をのんだ。
ユングの心理学によると、我々の心は意識していないレベルでつながっているとのことだが、人と人との間には、目にみえない波動が行き来しているのかもしれない。ところで、スポーツ界においては、アイススケートの黒岩彰はイメージトレーニングで手足の先端までに意識を集中できるようになった。体操の池谷と西川を育てた山口コーチは潜在意識のレベルまで訓練したといわれている。今後の我々に与えられたテーマはマインドコントロールにあるのだろうか?
資料
1)「淡路香りの館」兵庫県津名郡一宮町 Tel:0799-85-1162, FAX:0799-85-1163
2) 橋本克彦著、コーチたちの闘い、時事通信社
◆ 成長ホルモンとモーツァルト
桜前線を追いかけるように北に向かった新潟への旅。平成6年4月、春の訪れを祝うような暖かい風の中で、日本内科学会総会が開催されていた。会場になった新潟県民会館近くの白山公園の桜が今が盛りと咲き乱れている。暖かい四国に生まれ育った私にとって、北の桜は春を待ちわびて色づいているかのように見え、淡い薄紅色の花たちは旅の疲れも忘れさせてくれた。
県民会館を出て、ぶらりとあてもなく歩く由緒ある町並み。春風に誘われるように、古町通りにさしかかったとき、「モーツァルト」という文字が私の視野に飛び込んできた。
引き込まれるように店内に入ると、所狭しと並ぶクラシックのCDの数々。棚にはNaxosやMarco Poloなど外国でプレスされたCDもあり、店名にふさわしいモーツァルトのものも多い。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、音楽をこよなく愛し、ピアノ演奏を趣味とする私にとって、この名前は瞬時にしていろんな想いを駆け巡らす。彼は1756年に生まれ、わずか3歳でピアノを正しく弾き、5歳でメヌエットを作曲、6歳からは宮廷などで御前演奏をしていたという。幼少の頃から「神童」と騒がれた、まさに早熟型の天才。彼の才能は満ちあふれていたが、彼にも一つだけ足りないものがあった。彼は身長150 cm以下という背丈しかなかったのである。
私は内分泌学を専攻しており、この低身長は成長ホルモン分泌が不足したためと考えるが、それはなぜだろうか?考えてみれば、彼の生涯は旅と共にあった。わずか6歳にして、「ステージパパの元祖」といわれる父レオポルドと、ヨーロッパ各地に演奏の旅に出ることになる。馬車に揺られながらの長旅では、手足を伸ばし、ゆっくりと眠れることが少なかったであろう。「寝る子は育つ」といわれているように、成長ホルモンは眠っているときに一番多く分泌されることが知られており、成長期に熟睡できなかったことが第1の原因と考えられる。
それに、第2の原因として、その時代の生活環境や衛生環境が悪かったことが挙げられる。レオポルドは7人の子供をもうけたが、生きながらえたのは三女のマリア・アンナとアマデウスの2人であることが過酷な環境を裏付けているようだ。その上、不規則な長旅では、バランスがとれた栄養を取れなかったこともあったに違いない。さらに、アマデウスは小児期に多くの病気を患っている。記録によると、6歳から11歳までに毎年、結節性紅斑、上気道炎、扁桃腺炎、腸チフス、関節リウマチ、天然痘と病魔に見舞われ続けた。抗生物質があるわけでなく、治療として悪い血を除くために瀉血などの原始的な治療が行われていた時代なので、いずれの病気も遷延したのが第3の原因であろう。
最後に、父親との関係も原因の一つ。レオポルドは、早期に息子の才能を見抜き、音楽家として周到な指導をし、自分の仕事を投げ打ってでも息子のために尽くしたといわれている。しかし、また、息子を売り出そうという欲深い面も持っていた。最近、「愛情遮断症候群」という子供の疾患が知られるようになった。愛情がない家庭の子供の背は伸びないが、この親と別居すると急に背が伸びだすという。彼の場合は、逆に、多年にわたる父親の愛と支配が大きなストレスになったことは否めない。また、母親と離れた旅で、母の庇護を受けられることが少なかったのかもしれない。
ところで、成長ホルモンは視床下部と下垂体のいずれもがうまく機能しなければ正常に分泌されない。彼の行動や性格から判断して視床下部機能に何か異常があった可能性も皆無ではない。1781年、彼がウイーンに安住の地を見つけた時はすでに25才、もう成長するには遅すぎる年齢であった。しかし、彼の残した数々の音楽は、無限に成長し続けている。魔笛、フィガロの結婚、数多いピアノソナタなど、今もなお親しまれ愛されているモーツァルト。もし彼が日本を旅することができ、ゆっくりと桜満開の白山公園を散策することがあれば彼の身長もあと5 cmくらいは伸びていたかもしれない。
◆ 心と身体のリズムNo.1
1994年11月、芸術の秋。山々の緑が赤や黄に色づきはじめた時、徳島県で活躍している歌手のコンサートが県の鳴門文化会館で行われた。身体を包むようなスポットライトの光、響きわたるソプラノの歌声とともに、私は伴奏ピアニストとしてアシスト役を務めた。歌の伴奏は簡単そうに見えるが、なかなか難しいものである。楽譜ではリズムは規則的に書かれているが、演奏自体は、歌詞やフレーズなどによって微妙に音符の間隔や強弱が変わり、常に音は揺らいでいる。歌手の心の「ゆらぎ」が、伴奏者の息とぴったり合った時にこそ、素晴らしい演奏となるのである。私は今回、徳島大学の吉森教授に伴奏の手ほどきを受けたが、音楽の真髄は「ゆらぎ」だったのか!と、改めて強く感じた。この「ゆらぎ」とは、宇宙の至るところに存在している。天体では地球の自転、天変地異、自然では、季節の移り変わり、夏の日のかげろう。動植物では、風に揺れる木の葉、小鳥や虫の音などにみられる。「ゆらぎ」は、元来、トランジスターなどの研究で発見されたもので、規則的なリズムがベースにあり、時々、意外なリズムの変調が含まれているものである。最近、1/f「ゆらぎ」理論が紹介されており、森羅万象はすべて1/f0--1/f1--1/f2の数式で表現できると言われている。例えば,1/f0とは、深夜放送終了後のテレビの画像と雑音は、まったく秩序のないカオスの世界で、見る人の神経を苛立たせる。一方、1/f2とは、正確に時を刻む時計にたとえられる。全く規則的な時計の振り子をじっと見ていると、催眠術をかけられたように眠たくなってくる。1/f0と1/f2との中間の1/f1近くのゆらぎのリズムが、自然界に普遍的に存在し,快い気分をもたらすという。
この理論を考慮して作られたCDがあり、タイトルは「α波・1/fのゆらぎー大地からのおくりもの」(APCE-5044)。ジャケットには「心の安らぎ・ゆとりを求めるあなたに:α波・1/fのゆらぎ実測データに基づくナチュラルな音空間を贈ります」とあり,聴くと確かにリラックスしてくる。いろんな音楽の1/fxを調べて、xの値を求めた研究がある。xが0-1には、ロックやジャズが位置し、xが1-2付近にはバロック音楽が、そして真ん中のxが1付近にはクラシック音楽、特にモーツァルトの音楽が位置するという。彼の音楽は、私たちに「やすらぎ」を感じさせることはよく知られているが、このように理論的根拠があるのだ。彼の旋律や、和音、リズムには、規則性と意外性がほどよくコンビネーションされている。少しづつ展開していく音楽が、適度な安心感と緊張感を与え、心を和ませるからであろう。
最近、学生にモーツアルトの曲を聴かせながら勉強させると、IQ(知能指数)が上昇するという英国の新聞記事が注目されている。この理由として、彼の曲に共通する一定のリズムが学生の脳に働きかけて、記憶力を増進させるのではないかと推測されている。音楽にリズムがあるように、人の身体にもいろんなリズムが内在する。3種類のバイオリズムの存在が知られており、①身体リズムは体力、耐久力、抵抗力に、②感情リズムはムード、直感、精神力などに、③知性リズムは思考力、記憶力、集中力などに関与している。これらは、それぞれ23日、28日、33日の約1カ月の周期を示し、気づかないうちに、我々の生活に影響を及ぼしている。また約24時間周期の体内時計もあり、体温やホルモン分泌を制御する強振動体と、睡眠覚醒サイクルを支配する弱振動体が、うまく協調しながら1日のリズムを形作っている。さらに短いリズムとして、脳波や心臓の拍動などが挙げられる。
これらにはすべて「ゆらぎ」がある。胎児は,羊水中で母親の心音を聴きながら育っている.このゆらぎのリズムに対する快感が,無意識のレベルにインプットされ,生後も胎内の記憶が残っているのだろうか?次回は、心音について述べてみたい。
資料1)吉森章夫.徳島大学総合科学部長、徳島県音楽協会会長。徳島合唱団、ママさんコーラスなど多数の合唱団の指導・指揮者として活躍.
◆ 心と身体のリズムNo.2
前回に引き続き、今回も心と身体のリズムについて考えてみる。人は生まれる前には,お母さんのおなかの中で母親のある心臓の音を聴きながら育っている。さて、生後に泣いている赤ちゃんをあやす方法がいくつかあるので紹介しよう。まず,乳房やほ乳ビンを吸わせ、十分お乳を与えて空腹を満たしてやることだ。次に,手足を毛布で包んで押さえる。毛布による温熱効果や、よい肌触りによる皮膚感覚効果があるらしい。乳児は様々な刺激で興奮し、手足をいくら動かしてもどうすることもできないという苛立ちが生じるという。従って、毛布で手足の動きを押さえることが、鎮静効果がもたらすとの研究結果もある。赤ちゃんを抱きあげて、スキンシップで泣きやませることもできる。もともと皮膚は、外胚葉由来で神経とつながっているので、皮膚の感触で落ちつくのであろう。ここで重要なことは、母親の左胸に赤ちゃんを抱くことである。というのは、母親の心臓の鼓動が直接乳児に伝わることによって、胎生期の記憶が呼び覚まされて、赤ちゃんが安心感を感じるからである。母親の「ゆらぎ」のある心音の録音テープを聴かせると泣きやむことはよく知られている。最も注目すべきは、赤ちゃんをあやすときは、抱きあげてリズミカルに揺すったりすることが日常自然に行われていることだ。英国の研究者が揺らし方と効果について特別の振動装置を使って行った研究がある。彼らが対象にした乳児は、揺れの幅が7 cm,1分間に60回揺らすのが最も効果があったという。母親は無意識のうちにこれを実践しているという。ゆらぎと安らぎに関する本能と遺伝とでも言えようか。
私たちの心にも「ゆらぎ」がある。なんと人の心の移り気なども「ゆらぎ」に関係しているそうなのである!?恋人に心を奪われたら、一緒に居たいと思う。これは緊張感もあるが「やすらぎ」をも感じたいからではないだろうか。恋人の言動がある程度予想どおりであったり、時々可愛らしい仕草やおしゃれな言葉を再発見または新発見することで、さらに心地よさを感じるのである。やはり、規則性と意外性の適度な組み合わせが良いのだろうか?
歌人の与謝野晶子が「海恋し、潮の遠鳴り、数えては、少女(おとめ)となりし、父母(ちちはは)の家」と詠んでいる。海岸から少し離れたところに生家があり、子どもの頃から海の音を聞きながら成長して乙女になったという情景が眼に浮かぶ。静寂の夜、子守歌のように、遠くから伝わってくる打ち寄せる波の音を聴きながら、ゆらぎのリズムが心地よい夢の世界へと導いたのだろうか。そもそも,海は”水”と”母”が合わさった漢字であり,生命の源泉である.生物は進化してヒトとなり,人間は0.9%食塩水の体液成分を持ち、母の胎内の羊水の中で育ち生まれてきている。従って、母親や乳房の訳であるMamaやMammaの語源は、フランス語で「海」を意味するLa Merに由来しているのである。だから、私たちは、水やせせらぎの音を聞くと何かしら懐かしい気分になる。おそらく、古皮質の脳には、水や波の音を聴くと、太古の昔を思い出すように、私たちの身体の中の遺伝子にインプットされているのであろう。
さて、先日、「理性のゆらぎ」という、医学とサイババの世界を研究した興味深い本を見つけた。その中の一節を紹介しよう・・・あらゆる科学は最終的には「近似」である。量子の世界には「不確定性」と表現される原理的に避けがたい「ゆらぎ」が存在し、マクロの世界には相対論的な「ゆがみ」が存在する。それ以外にも、理論の一つ一つ、技術の一歩一歩に近似が登場する。その「ゆらぎ」や「ゆがみ」は、おそらく存在の深いレベルに由来している。それは、粒子や波動のゆらぎではなく、理性のゆらぎ、人間の理性そのもののゆらぎなのである・・。
資料1)与謝野晶子。歌集「恋衣」明治38年 2)青山圭秀。「理性のゆらぎ:科学と知識のさらなる内側」、三五館(株)発行。
◆ ベートーベンとワイン
1995年の暮れもおし迫り、日本全国では、ベートーベンの第九交響曲「合唱」の演奏会が多く行われている。この暮れの「第九」現象は、本邦だけにみられるが、なぜだろう?その答に「第九忠臣蔵説」というのがある。どこの公演でも満員となり、商売としては間違いなく儲かるので、わかっちゃいるけどやめられない。そもそも、歴史的には終戦直後に、なんとか越年資金をという楽員たちの切実な願いからスタートしたものだが、これに、ベートーベン最後の交響曲という特別な意義を感じる日本人の心情が加わった。さらに、経済的繁栄と生活のゆとりから音楽を楽しむ人が多くなるなど、これらが絡み合って、今日の盛況となったとも言われている。
さて、本邦における「第九」の初演は、いつどこで行われたか、ご存じだろうか?実は、大正時代に、徳島県の板東という地でドイツ人たちにより初演されたのである。その当時の歴史をひもといてみよう。第1次世界大戦が始まると日本も参戦し、ドイツの租借地だった中国の山東(シャントン)半島にある青島(チンタオ)を攻撃した。敗れたドイツ兵士約5,000人が捕虜となり、日本各地の収容所に俘虜として送られ、約1,000人が1917から2年8カ月を板東俘虜収容所で過ごした。松江豊寿氏が所長を務めたが、彼は戊辰戦争で官軍に敗れた会津藩士の子であり、敗者の気持ちを理解する包容力のある人であった。「ドイツ兵も国のために戦ったのだから」というのが口癖で、ドイツ兵の健全で快適な生活に配慮したのである。なお、彼と俘虜の友愛の物語が1994年に直木賞を受賞したので参考にするとよい。
収容された俘虜たちは、松江所長や所員たちのヒューマニズムあふれる管理方針により人道的な処遇をうけ、自主的で自由な生活を送ることができ、板東俘虜収容所は「模範収容所」として世界的に注目されていた。ここでは、既製の建物以外に俘虜たちによって様々な施設が作られた。ボウリング場のある商店街や、山の中腹に建てられた多くの別荘をはじめ、レストラン、印刷所、温泉浴場、化学実験室、図書館、音楽堂、植物園、菜園など、さながらドイツ人の町が、この地方に出現したようだった。
また、驚いたことに、日本で最初の健康保健組合が作られていたことがわかった。収容所のすべての編成部隊からの代表者が集まり、数日で計画がまとめられ、1917年4月20日に収容所健康保健組合が設立された。その基本理念は、資力を持たず、援助を必要とする収容所の病人すべてに、日本側から提供されない適切な病人食、栄養剤およびその他の補助手段という形で援助と負担軽減をすること、彼らの運命を和らげその回復を速くするために、あらゆる方法で病気の戦友達の力となること、であった。同年4月20日から12月31日には、毎月平均20名の患者の給食を行い、2名お重症疾病者を転院させた。7月には2つの薬局を開き、8月から12月に4594回の治療を行った。その内訳は包帯処置1538回、その他の怪我873回、頭痛、風邪に856回、下痢に267回少量の薬剤が交付され、栄養剤92本が渡されている。1917年には収容所内の健康状態は恵まれ、伝染病もなかったが、1918年11月にはスペイン風邪が流行し、俘虜の70%が罹病。3名がインフルエンザに起因する肺炎で死亡し、徳島陸軍病院で中瀬、三島、桜井軍医が組合と協力して診療したことや、各年度の決算などが収容所新聞「バラッケ」に詳細に記されている。
浮虜たちは、地域の人々から「ドイツさん」と親しみをこめて呼ばれ、隣人として地域社会と豊かな交流があった。牧畜、製菓、製パン、西洋野菜栽培、建築、スポーツなど当時の進んだ技術や文化を伝えて指導した。また、演劇、スポーツ、講演会など多彩な活動を行い、1918年3月の「板東俘虜制作品展覧会」には、近郊の町村などから延べ5万人が訪れ、前代未聞の人で賑わったという。特に、音楽面では、複数のオーケストラや楽団、合唱団が定期的にコンサートを開き、様々な曲を演奏した。そのような中で、1918年6月1日に「第九」が日本で初めて全曲演奏されたのである。
このうわさを聞いて、東京からわざわざ徳島まで第九を聴きにきた人がいる。紀州徳川家の十六代目の当主徳川頼貞(1892-1954)である。彼はのちにわが国における「第九交響曲」演奏のパトロン的役割を果たした。彼が書いた「會庭楽話」の中の「第九見聞記」の一節には、俘虜たちが腕によりをかけた見事な料理を楽しみ・・ハイドンの「驚愕交響曲」と「第九」を聴き・・・音楽家でもない多くの素人達の真摯な態度に敬意を表し、彼らの教養とドイツの文化に羨ましさを感ぜずにはいられなかった・・・、と記されている。
彼らは何を求めて、この困難な大曲を演奏したのだろうか?確かに、収容所の生活は自由で模範的であったというが、いつ開放されるともわからない捕らわれの身では、家族や恋人、故郷を思う限りない望郷の念と、自由への願望があっただろう。ベートーベンの生涯は第九ならぬ「大苦」の連続であった。運命にうちひしがれる弱い立場の人間が苦闘を重ね、遂には勝利をかち得るのを身を持って範を示し、魂を鼓舞し、勇気を与えた。「第九」の1・2楽章では、激しい闘いや苦しみを打ち破り、堂々と前進するなど人生の高揚期を思わせる。そして、楽しかった「あの頃」を思いださせるようなゆったりした美しい第3楽章。さらに、第4楽章のやがてくる輝かしい飛翔への歓喜の大合唱。当時俘虜たちの平均年齢は29.9歳。若い彼らは、合唱の中で収容所の生活を一日も早く終わりたいとする解放の叫びとして、力いっぱい繰り返し歌ったのではないだろうか?
1920年にはほとんどの俘虜が祖国に帰り、収容所はその後軍隊の演習用兵舎や第二次世界大戦後は大陸や南方からの引揚者用の住宅となった。ある日、ここに住んでいた高橋春江という一主婦が、薪取りにいく途中、草むらの中に一基の見なれぬ墓を発見した。これは11名のドイツ兵士の墓であった。抑留、引揚げの苦労や戦争の悲惨さを体験していた彼女は、それと知って、以来十余年香華を絶やさず守りつづけたという。この善行は駐日ドイツ大使を通じて本国へ伝えられた。その後、本国からの手紙がきっかけとなって両国の友好が復活し、1972年には収容所があった近くに鳴門市ドイツ館が建設され、1974年にはドイツ連邦協和国のリューネブルク市との姉妹都市の盟約が結ばれた。さらに、1982年には鳴門市文化会館の柿(こけら)落としの公演として、市民手作りの「第九」の演奏会が盛大に開催された。この演奏会は「第九」初演の地における64年ぶりの快挙として、全国に大きく取り上げられた。それ以来、毎年6月には「第九」の演奏会が続けられている。「第九」を一緒に歌いたい方は、ドイツ館に問い合わせてみるとよいだろう。
ドイツ館には、多くの写真や遺品などが納められており、第九の初演のプログラムもある。すこし色あせているが、当時の高い印刷技術によるものらしく、かなり手のこんだ謄写印刷(多色刷り)で作られている。表紙にはベートーベン像とリボン付きの大きな月桂樹の環が描かれ、裏表紙には、演奏は徳島オーケストラで、80人の男性合唱団、指揮者、独唱者の名前が書かれてある。1階のロビーの片隅にはドイツのいろんな名産が置かれているが、ふと見るとワインのラベルにベートーベンがいる(下図)。このワインはドイツのケーヴェリッヒ醸造所で作られているのだが、なんと、ここはベートーベンの母親マリアの生家なのである!当時、彼はこのワインを飲みながら、「第九」を作曲したと伝えられている。それでは、由緒あるワインに乾杯!
参考文献
1) 鈴木淑弘. 第九と日本人. 春秋社.
2) 戦争が行われている場所で捕らわれた場合を捕虜、敵の本国に送られた場合を俘虜と呼ぶ。
3) 林 啓介, 他. 板東ドイツ人捕虜物語. 海鳴社.
4) 林 啓介, 「第九」の里ドイツ村, 井上書房. Tel 0886-72-1133, 著者Tel 0886-89-1253.
5) 富田弘, 板東俘虜収容所, 法政大学出版局.
6) 中村彰彦. 「二つの山河」, 文芸春秋.
7) 鳴門市ドイツ館 〒779-02 鳴門市大麻町檜字東山田55-2. Tel 0886-89-0099,FAX 89-0909.
8) 入手先: ESPOAマルキチ, Tel.0886-52-6856.
◆ ホルモン天使の声
男性のみならず女性にも人気のニューハーフの店を、夜の歓楽街に訪ねた。怪しげな照明の中で、これまた怪しげなルックスの美女?たちが 歩し歌や踊りを繰り広げる。艶っぽいものからコミカルなものまで、声こそ低音で男性の名残を感じさせるが、彼らの熱演ぶりに強烈なプロ意識を感じた。彼らは、みな美しく、身体が丸みを帯びて太めの人もいるが、中にはわざわざ外国まで行って整形した人もいる。
そういった彼らを、専門のホルモン学的立場から3つのカテゴリーに分類すると、1)特別な手術など何もしない場合、2)睾丸(玉)を抜く手術を行う場合、3)玉だけでなく、サオまで取る手術をする場合・・。玉抜きは男性ホルモンが出なくなるため、体つきが丸く女性らしく変わってくるが、サオ取りの場合は感染しやすく、医療技術が未発達な昔では生命にかかわるような危険な手術だったことを考えると、いかに近代医学が発達していようとも、日本以外で手術を受けるその勇気には、並々ならぬものを感じた。
去勢は、ニューハーフになるためだけのものではないことは、音楽家たちの間では有名である。ソプラノの美声を保つために去勢することは近世のヨーロッパでは当たり前のように行われていたようだ。18世紀に活躍したソプラノ歌手カルロ・ファリネッリを主人公に描いた映画「カストラート」は、兄に去勢されたために、人並みはずれた3オクターブ半の音域を与えられ、兄が作曲した歌で名声を勝ち得た兄弟の罪悪感と栄光を縦糸に、天才作曲家ヘンデルとの確執を横糸に、波乱に満ちたカルロの生涯を描いた秀作である。映画での彼の声は、カウンターテナーと女性ソプラノの二人の声をコンピューターを駆使し3,000箇所も細かく合成したもので、私は、その最新鋭の現代技術が作り上げた歌声に体が震えるような感動を覚えた。それほど「去勢された男性・カストラート」の声は魅力的であり、素晴らしかったのだ。
去勢の起源は、古代メソポタミアで牛馬をおとなしくさせるために行われており、紀元前には、アッシリアの女王が男性奴隷を去勢したとの記録が残されている。これが中国に伝わり、宮廷の宦官となり、アラブ世界では、ハーレムの女性たちの番人となったのである。男性としての機能を奪われた彼らは、不幸の中から、次第に女性の声が出せることが注目され、教会の合唱団という舞台に向かう。当時は、女性が教会で歌うことは禁じられており、高音域のパートとしてボーイ・ソプラノがまず誕生した。しかし、子どもは声量が小さく、次に大人の男が裏声で歌う「ファルセット歌手」が登場。この後、16世紀末にはカストラートが一世を風 し、「天使の声」と賞賛された彼らの歌声が貴婦人を熱狂・失神させたのである。
しかし、カストラート登場の背景は、決して陽の当たるものではなかった。当時のイタリアは、人口の急増が大きな問題であった。そこで、貧しい父親はわが子を修道院に送り込まなければならなかったが、文学やオペラの題材になっているように、修道士や修道女の大量生産は多くの悲劇を生んだ。男としての一生を台なしにしてまで、去勢などという物騒なことをわが子に施したのは、教会の合唱団員として一生安定した生活を送れ、もしオペラ歌手として成功すれば王様のお抱えにもなれるからである。「カストラート」は、こんないちるの望みを去勢という非道の行為に託した父親のわが子に対する愛情の現れだった。ジャンジャック・ルソーは、「イタリアには野蛮な父親がおり、財産のために情けを犠牲にして、子供たちにこの手術を受けさせている」と厳しく指弾している。が、実際は、その子が音楽好きか、音楽的才能はどうか、などを吟味してから去勢を施したので、多くの場合、子供自らも同意して手術を受けていたようだ。もっとも、小さな子供が同意したからといって、インフォームドコンセントがきっちりと取れていたとは判断できないし、行為の是非については当時の社会情勢などを十分に考えなければ結論を出すことはできない。
さて、手術はうまくできたのだろうか?イタリアは外科の先進国で、ボローニャ大学には、何と、1250年に世界最古の医学部が創設されたほどである。当時、英仏独では、外科医は床屋が兼務していた。床屋の赤、青、白のマークは、動脈、静脈、神経を表していることはよく知られているとおりだ。一方、14世紀のイタリアでは、ルネッサンス思想のもとで、人体解剖や外科手術が多く行われ、すでに外科医はプロの医者として専門分化し、ボローニャ大学のある外科医の去勢の技術が注目されていたという。その方法としては、1)まず、生殖器を柔らかくするために、子供をミルクの風呂に入れる、2)麻薬のアヘンを使って麻酔をする、3)麻酔がない場合、頚動脈を圧迫し、子供が昏睡に陥ったところで手術をする、4)鼡径部を切開し、そこから精索と睾丸を引き出すー、などの手術が行われていたようだ。
彼らは、8-12歳頃に手術を受けてから、音楽学校に入った。カストラート教育は、特にナポリの4大音楽院で行われ、パトロンがついたり学費免除など多くの特典があり、一般教育も十分だったようだ。例えば、ロッシーニのオペラ「セビリアの理髪師」にも登場する名カストラート・カッファレッリの当時の日課を見てみよう。午前中は、難しい歌唱パッセージの練習、国語、鏡の前で歌唱・演技の練習を各1時間。午後は、音楽理論、対位法の五線紙上での練習と実習、即興の練習、国語、ほかにはハープシコードの練習や賛美歌の作曲などもあった。15-20歳頃までこういった一貫した英才教育を受けて卒業し、その後各地で活躍したとされる。
こういったエリートたちの果ては・・。去勢された男性ならだれもが突き当たる壁だ。ラブシーンを考えるとよく分かる。生殖の不能はあっても、性交の不能はない。子種もないから女性には人気がある。金持ちのツバメとなって稼いだカストラートもいたという。しかし、ある年齢になり、結婚して子供を作って平和な家庭を持ちたいという平凡な願いが叶えられないことを知る。通常の人生が送れない。自分の存在意義を求めた彼らは、自己を舞台で表現し、歌唱の技術について究極の技を研究するようになった。その結果、カストラートが完成させたベル・カント唱法は、現在に至るまで発声法の基本となっている。また、よく知られているソルフェージュは、そもそもカストラート用の教科書として編集され、その後世界中に広まったものだ。モーツァルトが幼少の頃、父に連れられて著名なカストラートから歌唱法を学んだという記録もあり、モーツァルトをはじめ多くの音楽家が、カストラートの声をイメージしながら、オペラを作曲したのだ。すなわち、カストラートがいたからこそ、現在の歌唱技術が完成され、音楽の歴史が作られたと言っても過言ではない。
この世で最後のカストラートとして知られるのがサンドロ・モレスキー教授(1858-1922)である。彼はカストラートとして唯一、録音をした人で、私はYale大学図書館に残されているその声を聴いたが、男性、女性、子供の三位一体からなる声で、崇高で官能的な強烈な印象を感じたことを記憶している。最近、カストラートに関する書籍やCD、LDがリリースされたので、ぜひ、皆様にお薦めしたい。
ニューハーフにカストラート、究極の美は女性と子供にありということだろうか?確かに3種類のニューハーフや歌舞伎のおやまは魅力的だ。これに最近は見ただけでは男か女か判断できない若者がいる。どこからどう見ても男にしか見えない私は、中性の美に複雑な思いを感じる。はたして、彼らが患者として訪れた場合、オトコの私はオトコとして彼らに向かうことができるだろうか?
参考資料
1)映画「カストラート」(ユーロスペース配給)1995.
2)去勢はcastration, カストラートはcastrato(単), castrati(複)
3)Alessandro Moreschi: The Last Castrato. OPAL CD 9823, Pavilion Records,1987.
4)パトリック・バルビエ著、野村正人訳.カストラートの歴史.筑摩書房,1995.
5)アンドレ・コルビオ著、斎藤敦子訳 カストラート 新潮社,1995.
6)アンガス・ヘリオット著、美山良夫監訳 カストラートの世界 国書刊行会 1995.
7)今野裕一編、ウルNo.10、カストラート/カウンターテナー、ペヨトル工房 1995.
8)CD盤.「カストラートの時代」 EMI, TOCE-8693,1995.
9)LD盤.コヴァルスキーが語る<カストラートの世界>BVLC-36,BMG Victor,Tokyo,1995.
◆ ユーミンと脳細胞
認定内科専門医会の四国支部世話人代表である板東 浩先生が、なんと平成5年12月に全四国音楽コンクールピアノ部門一般・大学の部で最優秀賞を受賞されました。音楽学校の大学院生を相手にこの快挙はとても医者とは思えません。彼にこのような才能があるとは誰も信じないでしょうが本当の話です。その後、彼は音楽活動を行いながら、内科専門医会雑誌に「医学と音楽」のエッセイを書き続け、今回から3年目に入ります。内分泌・代謝学を専門とする医師で、もしかしたら天才ピアニストかもしれない(?)板東先生の今後の連載を引き続き楽しみにしてください(小林祥泰)。
ドアをあけると、そこは別世界だった。エキゾチックな香りと薄い霧に包まれた会場。プロローグから異次元空間への期待が高まる。短い間隔のストロボ、内臓を揺り動かすベースの音、きらめく原色のレーザー光線。心臓の鼓動が高鳴り,身体の中から魂が、大きなパワーで引き抜かれてしまいそうになる・・・。
私たちの心を操る人、それはユーミンこと松任谷由美である。荒井由美の時代から、Yumingの音楽はずっと私たちの心を捉えて離さない。それは一体なぜだろうか?
第一に、彼女のレトリック(詩)には、他の歌手にはない魅力がある。窓から見える何気ない光景。ある一コマをモチーフに、恋心や恋への不安などを絵画的な眼で表現した輝きがある。だから彼女の歌を聴くうちに、その光景がお仕着せでなく、自然に鮮やかに脳裏に浮かび上がってくるのだ。ユーミンは、美大で日本画を専攻したという。この経験が、日の光や水の影というどこにでもある情景に命を吹き込むのだろう。
雨音に気づいて 遅く起きた朝はまだベッドの中で 半分眠りたい ストーブをつけたら曇ったガラス窓 手の平をこするとぼんやり冬景色
これは「十二月の雨」という彼女の初期の作品である。この詩から湧き出るイメージは十人十色であるが、聴く人みんなの心に染み込むのは、それが単なる一風景ではなく、心象風景に歌いあげられているからではないだろうか?
第二には、彼女が人に対する鋭い洞察力や優しい愛を持っているからだ。ユーミンはラジオのパーソナリティーとして、多くの人々の相談に応じ、慰めたり勇気づけたりもしている。この豊かな感性が、彼女の歌を心の中に印象づけ、いつまでも心地よい記憶として残してしまうのだ。第三には、きらびやかなライティングと身体の芯まで揺り動かす音響にある。最新のコンピュータ技術を駆使した華やかなステージには、曲にマッチした映像が映しだされる。
今回のテーマは「カトマンズ」。心の中の街への旅。ユーミンの歌を聴いているとこんなフレーズが浮かぶ。彼女にとって、旅はそこへ行くことが目的ではなく、地図では表せない街への旅。言い換えれば「時空間のゆがみへの旅」である。クラシックバレーやヘビメタなど、あらゆる時代やジャンルを越えて取り入れることが、その旅への不可欠なアイテムとなってくる。その結果、彼女のステージは、五感すべてを刺激し独特のユーミンワールドに私たちをいざなってくれる。
さて、音楽と映像は互いに影響しあって、我々の心を支配する。美しい風景を映画でみる場合、BGMの存在こそが、より強く印象づけるのだ。ユーミンのコンサートでは、musicだけでなく、back ground illuminationが次々と映しだされて、我々を一層ユーミンの虜にしてしまう。このことは、最近注目されている乳幼児の能力開発教育法に結びついてるように思う。様々な図や文字を描いたカードをたくさん用意して、1秒間に数枚という高速度で見せ、頭脳を訓練させるものだ。
我々の脳に入力される情報の9割は視覚からだといわれている。さらに、近年の研究で、様々な形や色の映像の信号が視野領域に送られると、刺激される脳の場所がそれぞれ異なると報告されている。また、人の顔や姿の違いによっても特定の脳細胞の電気活動がみられるという。これは、免疫学で、先差万別な抗原に対して抗体をかつて作ったことがあれば記憶しているように、一度でも見たものは、すべてそれぞれ異なる脳細胞にインプットされているのかもしれない。
ところで、芸術と脳発達の関係がScience誌に発表された。MRIを用いて脳を調べると、絶対音感を持つ人は、脳の左側の側頭葉後部が右側より大きいことが明らかになったのである。著者のSchlaugは、医学部入学前はオルガン奏者であったが、残念ながら絶対音感はなく、「絶対音感はgiftで本当のtalentである」と述べていた。彼の悔しくもまた憧れであった絶対音感への想いが、この研究を成就させたのであろうか。絶対音感とは、調律笛の助けを借りずに楽音の高さを正確に言い当てたり、様々な音の音程がわかることである。私事で恐縮だが,私は物心がついた時から不思議と絶対音感が身についていて,汽笛やパトカーのサイレンの微妙な音程が分かった。ある音楽家がコップが落ちて割れる音を聴いて、「これは○○の和音だ」と指摘したという話を聞いたことがある。そこまでになると、天才と何とかは紙一重という気がするのだが・・。
一方 、別の報告では、ある音楽の旋律を初めて聴いた時は、左でなく右脳が刺激されるという。この2つの説は相反するようだが、そうではない。従来、言葉の中枢は左側頭葉にあり、音楽や作曲に関する中枢は右側頭葉にあることが知られている。現時点での研究成果をまとめると、
1)音楽的活動の内容は千差万別で、あるものは右脳で、あるものは左脳で情報処理されている
2)絶対音感の責任領域は左にあるようだが、この機能には言語と音楽の両者の能力が必要である
3)言語活動よりはるかに高次の機能と考えられる音楽活動が行えるためには、右脳と左脳の複雑なネットワークがうまく働く必要がある、
などと推測されている。
ユーミンはピアノで弾き語りをする。弾き語りとは、大脳で詩や旋律、伴奏を考えながら同時に、舌と唇を使って声を出して歌い、指でピアノの鍵盤を弾くという動作である。ご承知の通り、人間は動物から進化してきたものだが、人間の特質は言葉を話し、手を使うということである。大脳の面積の多くは、顔や舌、唇の知覚と運動に関与しており、手と指の運動には大脳の30-60%が使われているという。すなわち、弾き語りができるためには、脳細胞のほとんどを賦活して協調した情報処理機構が必要であるのだ。
ところで、ユーミンの曲がEnglish versionやFrench versionでリリースされているのを、ご存知だろうか。私が大好きな「卒業写真」では、悲しいことがあると・・ が、When I down, feeling sad,・・・と訳されている。英語の歌詞が別の脳細胞を刺激するのか、異なるイメージが心に広がる。
ユーミンの人と音楽は、中学生から中年の男女に至るまで多くの人々に受け入れられ、ファンを数十年魅了し続けている。近年、NHKの朝の連続テレビ小説「春よ、来い」の主題歌も手がけ、今や、ユーミンは国民的シンガーソングライターでもある。彼女のニューミュージックは、演歌でも浪速節でもないが、不思議と我々日本人の心の琴線に触れ、心が和む。これほど幅広い年齢層から受け入れられ、長年にわたり継続的に信頼されている姿は、私たち医師が目指すべき姿なのかもしれない。
ユーミンの最新アルバムに「織姫」がある。「コムラサキなら七月の 暮れたばかりの空の色」と始まるその歌は、私に懐かしさと安らぎを想い出させてくれる。あれは浴衣の行列が、山の小径を見え隠れ蛍のような提灯を星へと運んでいく。コンサートのエンディングで、着物姿のユーミンが、妖艶に舞いながら歌い綴る姿が瞼に甦り、私の気持ちはゆっくりと揺らぐ・・・。
参考資料
1) Schlaug G et al.Science 267:699,1995.
2) Zatorre RJ et al.J Neurosci.14:1908,1994.
3) 林 博史.頭のリズム・体のリズム.ごま書房,1995.
4) CD盤. Graduation/A.S.A.P.(As Soon As Possible), COCA-12161,1994.
5) CD盤. Yumi Matsutoya. KATHMANDU, TOCT 9300, 1995.
◆ 月の光とアンコール
嵐のような拍手とカーテンコールに、出演した俳優がステージに並ぶ。最前列では、背中に天使の羽がついた白いタキシード姿で、7人の男性が微笑みながら、深々と敬礼。彼らの手では、トランペット、トロンボーン、サックス、クラリネットなどの楽器が、嬉しそうにキラキラと輝いている。
これは、先日見た、演劇「ムーンライト ー夏の夜の不思議な夢の物語ー」のアンコールの場面。演じる劇団は「遊◎機械/全自動シアター」で、以前にはシェイクスピアの「真夏の夜の夢」を上演したこともある。「人生は一夜の夢のようなもの。一幕ものの芝居の如し」というシェイクスピアの精神を受け継ぎながら、3世代の恋愛狂騒曲に仕立てなおして、リメイクしたのが今回の作品だ。
この舞台は普通と違う。通常、演劇のBGMを担当する演奏家は、ステージの手前の光があたらないボックスで演奏している。いわゆる黒子だ。今回の芝居では、ミュージシャンは、舞台の上で生演奏をしながら、俳優としても重要な役を演じているのである。役者の心の微妙な揺れを、トランペットの単旋律のみで表現。トロンボーンではおどけた雰囲気、サックスでは情熱的な気持ちを増幅し、役者の演技を引き立てる。一貫して流れるミュージックは、1920-40年代の古くも良き時代のジャズ。名曲の Blue Moonでは、And when I looked, the moon had turned to gold! Blue moon! Now I'm no longer alone, Without a dream in my heart と、耳に心地よい。
Blue moon以外に、月に関連ある曲には、ベートーベンの「月光」、ドビッシーの「月の光」、グレン・ミラーの「ムーンライトセレナーデ」などがある。彼らは、月からいろんなインスピレーションを受けて、湧きあがってくる情感を曲に託したのであろう。人間は、昔から、満月の光をあびると、変身(心)するようだ。満月の夜には、狼男に変身したり、人が狂ったりする。月はラテン語でlunaといい、英語でlunaticは「月の」と「狂気の」を意味する。古代ローマの医者は、周期的に精神に異常をきたす病気のことをlunacyと呼んでいた。旧ソ連のルナ3号は1959年に月の裏側の写真撮影に成功し、米国の月面探査機ルナ・オービターは1966-68年に送った数千枚の月面写真のおかげで、1969年アポロ11号による人類初の月面着陸がなされたのである。はたして、満月の夜には、器機類はうまく作動したのだろうか?
今回の演劇では、月の光を浴びて、冷めきった老夫婦が突然熱く燃え上がったり、何だかわけもなく人のことを好きになったり、嫌いになったりし、月の魔力が存分に発揮されている。1987度アカデミー賞主要3部門を受賞した映画「月の輝く夜に」では、あろうはずもない恋が芽生えてしまう。また、大森一樹監督の「満月」では、満月の夜に、津軽藩の武士が江戸時代から現代にタイムスリップし、医学生と恋のライバルになったりするなど、月には何かのパワーがあるのだろうか、と思わせるほど、月の魔力を題材にした作品は多い。
この宇宙は150億年前にビッグバンで誕生した。スーパーコンピューターを駆使したgiant impact(巨大衝突)説(1984年)によると、火星サイズの天体が約時速10万キロメートルで地球と衝突し、溶けたマグマとなった岩石が宇宙空間へ飛び散り、数万ー数千万年かかって再び集まって合体した。その結果、45億年前に月が誕生したという。月は1年に3cm地球から遠くなっており、月が誕生した時は、今よりも15万kmも近かった。地球からみた月は、手を一杯に伸ばした時に5円玉の穴に入る大きさで、太陽も同じである。なぜなら、月より400倍遠い太陽は、月の400倍の大きさをもっているからである。新人類という奇妙な生き物が20万年前に出現してきた時期に、たまたま、太陽と月の見かけの大きさが一緒になるとは、不思議なタイミングだ。これは、宇宙や天体、引力などの法則により、必然か偶然かはわからない。しかし、逆に、様々な環境や条件がそろったからこそ、ホモ・サピエンスが出現できたのだろう。地球の歴史を24時間の長さに縮めると、この惑星をわがもの顔で徘徊している我々は、実は、わずか2秒という誕生したばかりの新参者なのである。
月の引力は強く、硬い地球の表面も引っ張っており、1日2回20cmも上下させているという。また、月の引力は、潮の満ち引きも起こしており、満月や新月の時には、太陽の引力の相乗効果で、大潮となる。アマゾンや中国でみられる「ポロロッカ」という、川の水の逆流のショーをテレビで見た人も多いだろう。満月や新月のときには、植物や動物にも行動に変化が来ることがわかっている。ヒマワリやマメは満月や新月の時に元気になり、水を吸い上げる量が増える。「ウニの卵巣は満月のころに大きくなる」(アリストテレス)とあるように、7-9月の満月の夜に、紅海沿岸のウニは産卵して受精する。また、ミミズに似た生き物の釣りのえさ、ゴカイは、12月の新月から二晩の間の満潮時の、その二時間にかぎって繁殖をするという。
地球上の生命は海に誕生し、単細胞生物から多細胞生物に進化するときに、細胞内に海水を閉じこめたのである。そして、月の引力を感知できる能力も、約4億年のあいだ遺伝し、人間にも受け継がれてきているのである。
月が女性の月経に関わっていることは、よく知られている。1万例の月経の周期を分析すると、満月と新月の日には、月経中のヒトが10%以上も増えていた。また、1957年のメナカーの研究で、人間の生殖は月齢と関係があり、月経周期の平均は、月齢サイクルとまったく同じ長さの29.5日であったことがわかった。全国の助産婦が取り上げた分娩のデータを分析すると、確かに、満月と新月に多く、さらに、引力の変化率と蓄積効果を重ね合わせたグラフは、出産データと一致したという。さらに25万例の出産記録では、平均妊娠期間が月齢の9カ月、つまり265.8日であることもつきとめた。
精神医学で有名なユングの弟子であるハーディングは、「月の神秘と女性原理」を著した。古代信仰から現代芸術に至るまで、女性と月との間には、密接なつながりがみられ、狼男伝説にみられる異常な攻撃性や凶暴性は満月の影響によるものだという。残虐な犯罪も、満月と新月の日に関係しているともいわれている。
このように見てみると、月の引力は、我々の潜在意識下にある欲望を引っ張り出すのであろうか、とも思えてくる。月の光をみると、かつて磁力や月の引力を感じる事ができた時代のヒトの本能を呼び覚ますために、心が翻弄されるのかもしれない。だから、昔から、「月の光には魔力が潜んでいる」、「月が地上を愛に染めた時ーー男と女は恋におちる」、「月は女に恋の魔法をかける」、などと伝えられているのであろう。
話は変わって、最近、テレビ番組の名探偵「コナン」に人気がある。小説家コナン・ドイルの生みだしたシャーロック・ホームズに、勝るとも劣らない有名な名探偵の高校生が、ある事件に巻き込まれた。死体から毒が検出されず、完全犯罪が可能とされる新しく開発された薬を飲まされてしまい、身体が小さくなってしまう。そこから、名探偵「コナン」の闘いが始まるのだ。
先日、ピアノソナタ「月光」殺人事件が放映された。満月の夜に、古いピアノから「月光」が奏でられ、殺人事件が起こる。ベートーベンの「月光」の楽譜にメッセージが隠されており、この暗号を解読する。手に汗握るサスペンスで、コナンが犯人の医師を追いつめる手法は、誠に見事であった。
さて、夏の夜には、「月光浴」がよい。心身の健康にヨーガは有名であるが、元来、ヨーガはハタ・ヨーガとも呼ばれ、ハは「月」、タは「太陽」を表す。ハタ・ヨーガの修行のひとつに「月の礼拝」があり、満月の4日前から、月に向かって礼拝をする。これに加えて、月の光を全身で浴びて深く息をする「月光浴」を一緒に行えば、身も心もやすらぎ、何ともいえない心地よさに包まれるという。
Blue Moonの光の下で、粋なブルースを奏でるトランペットの音色を聴くと、深い記憶の底から、超能力が呼びもどされて、スポットライトを浴びるかもしれない。もしかしたら、舞台だけでなく、現生の世界もすべて夢なのであろうか?
参考資料
1)池田寛と日本楽友会オールドボーイズ
2)高泉淳子. Story and Cast
3)Words by Lorenz Hart, Music by Richard Rodgers, Copyright 1934.
4)「月の輝く夜に」Moonstruck. ノーマン・ジュイソン監督.Herald.1987.
5)大森一樹監督.「満月」.松竹(株)配給.1991.
6)エスター・ハーディング著/樋口和彦・武田憲道訳. 女性の神秘(月の神秘と女性原理),創元社,1985.
7)青山剛昌. 名探偵「コナン」, Detective CONAN vol.7, 小学館,1995.
◆ 孔子と琴の音
有朋自遠方来、不亦楽乎
闕里賓舎ホテルの玄関に掲げられているこの言葉は、旅人の疲れた心と身体を温かくもてなしてくれる。西の空が夕陽で紅色に染まる頃、私たちはようやく、中国山東(サントン)省曲阜(キョクフ)市のこのホテルに到着した。夜には、正統山東料理で2500年の伝統を誇る「孔府菜(コンフーツアイ)」に舌つづみを打ちながら歓談。そのあと、ホテル2階の音楽茶座で古楽舞のショ-が始まるというので一番前に陣取った。まず、「編声」という、金属で作られた鐘が、いくつも紐で吊された楽器がばちで打たれ、音楽が始まる。続いて、中国の琴や管楽器で、古典中国音楽が奏でられ、それに併せて、頭に冠をつけた麗しい女性が、妖艶な舞踊を披露。最後には、「編鏡」という、石が紐で吊るされた打楽器が打ち鳴らされて、音楽が終わるのである。
ここ曲阜市は孔子の故郷。孔子(前551-479)は、御存知のように、儒家の祖である。孔子は、現実の人生にいかに処すべきかについて述べ、人間相互の愛情を重んじて道徳政治を説いた。孔子の血は脈々と受け継がれ、曲阜市の人口50万人のうち10万人が孔姓であるという。直系の子孫の一人が孔祥林で、最近、話題作の「孔子家の心」1)を著している。ホテルの横には、孔子をまつる大聖堂で、儒教の総本山である孔子廟がある。漢代以降、儒教が国教となり孔子の地位が高まるにしたがい、歴代皇帝の手厚い庇護と崇敬を受け、規模は次第に大きくなり、総面積は約22万m2。翌朝、私たちはすがすがしい空気を一杯に吸い込みながら、数分歩いて孔子廟の南端から入った。そこの門には「金聲玉振」と大きな文字が書かれている。孔子之渭、集大成也者、金聲玉振。その昔、孟子は「孔子の教えはすべてを包括しており、すべてを理解して悟りをひらいた人の言葉は、まさに素晴らしい音楽のように、私たちの心を和ませる」と述べた。「金聲玉振」という言葉は、昨晩の音楽を私に蘇らせた。すなわち、金は鐘で、聲とは宣べること、玉は磬(石製の楽器)で、振とは収(おさめる)。「先ず、鐘を撃ちて、その聲を宣言し、終わりには、特磬を撃ちて、その韻を収めて、楽を一終する。よりて、智徳の大成せるに喩ふ」、のである。金聲が「編声」で、玉振が「編鏡」に当たり、音楽は金聲から始まり玉振で終わるのだ。
以前にインドネシアのバリを訪れた時、ケチャックダンスやフロッグダンスの最初には、イントロあるいはプレリュードとして「金聲」に相当するような楽器が使われていた。身近なものでは、音楽や演劇が始まる時に合図として鳴らされる「ウィンドチャイム」があり、誰もが、音楽ホールで経験しているだろう。低音から高音へのアルペジオの音色が、キラキラと光輝くガラス玉を散りばめられているような極彩色の世界を、私たちの心の中にイマジネーションさせる。そして、これから始まるコンサートに胸ときめくのだ。これらは、「金聲玉振」を起源としているのではなかろうか?
さて、孔子が理想の人物として思慕したのは、周の礼楽文化を定め、周王朝の基礎をきずいた名宰相の周公。礼は礼儀、楽は音楽(礼学音楽学)のことで、孔子は礼楽制度を取り入れたのだ。孔子は才能が豊かで、琴の名手としてもよく知られていた。ある人が孔子を訪ねてきた時、孔子は居留守を使って不在であると伝えさせた。そして、素晴らしい琴の音色を奏でて、在宅である旨を来訪者に知らしめたという。人の道を重んじる儒家の祖の孔子でさえ、このようなエピソードがあるのは興味深い。その真意は、私ごとき者には理解はできないが、君子であったからこそ、遠回しに表現したのかもしれない。また、ある時、孔子は、信頼する弟子が病気となった時に見舞いに訪れ、斯人而有斯疾也(このひとにして、このやまひあり)と詠んだ。彼は、その人がその病に罹りしことを深く惜しんだのである。この短い文の中に、孔子の深く大きい情けが感じられる。
ここで、私は漢学者になったつもりで一句。斯人而有斯音也(このひとにして、このおとあり)。まず、音楽の心得のないものが音を出すと、その音にはゆらぎや減衰がなく、まさに雑音である。これは、神経を逆なでするもので、目覚まし時計のブザーになら使用できる。次に、小手先のテクニックだけしかない音楽では、聞く人の心には染みとおらない。さらに、孔子のような素晴らしい人格者が琴を奏でると、その弦の振動が聴く人の心の琴線を震わせるものなのである。
ところで、孔子廟の中を進んでいくと、銀杏(杏)(ぎんなん、いちょう)の木が目に入ってくる。伝えられるところによると、杏の木のもとで、孔子が教えを説いていると、そこには道ができたと言われている(荘子)。「杏」という漢字の成り立ちは、「木」の下に丸い実「○」がついたもので、これが「杏」になったという。現在、銀杏の木は、東京都の木、東京大学の校章、杏林大学など、知識、学問、医学などのシンボルとして使われている。他方、杏の木は、梨園と呼ばれていて、ここでは芝居や音楽などの演劇が行われていたという。
孔子廟を北に歩いて、突きあたりが本殿の大成門である。中国の3大宮殿のひとつで、孔子のまわりには、四人の賢者と12人の哲学者が控え、私も孔子にあやかるようにと、手を合わせた。そのすぐ横の建物には、約3000年前の漢の時代の石碑が残されており、いろんな絵が描かれている。万能の薬をつくるために、にゅう鉢で薬をこねている「うさぎ」。神農(医者の先祖の神様)は、山にこもり、数百種類の草を実際に煎じて飲んでみて、薬効を確かめたそうだ。百草を煎じて茶(ツア)として服用し、どれが効果があるかを調査(査ツア)したと言う(中国語の洒落)。
また、ここに扁鵲(へんじゃく)という興味深い動物がいる。これは医者の先祖として、鶏の身体に人間の頭を持つもので、伝説上の名医なのだ!手には大きな針を持ち、患者の正面に立って、患者の前頭部に鍼灸を行なっている姿。数人の患者が、冠をはずして、治療の順番を待っている。どんなに地位や身分の高い人でも、医者の前では、冠をはずしたいう。
すぐ横には、魚、猿、人間が順番に画かれており、これは進化を表すものらしい。人間は動物から進化したものという発想が3000年前にすでに考えられていたとは、驚くべきことだ。この概念は、後世になって、「個体発生は、系統発生を繰りかえす」というケッヘルの学説につながってくるのである。孔子家は、五代十国(907-979)の時代に、まさに途絶えかけたことがある。孔子家直系の子供である孔仁玉が殺されそうになったのだ。その時、乳母は機転をきかし、自分の息子の命と引換に孔仁玉を助け大切に育て上げた。彼は19才で科挙に合格し宮廷へ。機会をみて、彼は時の皇帝に直訴し、その後孔子の家系はずっと存続できたのである。この物語は、本邦の歌舞伎で有名な「先代萩(せんだいはぎ)」のあらすじと同様である。
さて、邦楽の作曲家で世界的に知られている三木稔先生は、徳島県出身である。彼は、「オーケストラ・アジア」を主宰し、「東洋の美」を追求し表現し続けている。「うたよみざる」や「じょうるり」「ベロ出しチョンマ」「ワカヒメ」などが有名だ。「あだ」(An Actor's Revenge)は、歌舞伎の「雪之丞変化」をオペラ化したもので、幼い頃に雪之丞の命を助けた医者が登場する。三木先生の直筆のお手紙を拝見すると、東洋文化に対する先生の真摯な情熱が私の心を打つ。
今回の視察から、「日本の文化」は「大木の枝の先に咲いた一輪の花」ではないだろうかと私は感じた。枝や葉を長い年月支えてきた幹、そして、幹を支えてきた根。土の中に広く張っているその姿は地上からは見えないが、花が咲くことができたのは、水や養分を小さい枝の先まで運んでくれた根のおかげだ。中国こそが、長い年月をかけて「根」の役割を演じてくれたのであろう。これらのオリエンタルな音楽や文化の起源は、中国であり、また、孔子であるかもしれない。まさに、今回の視察は、私にとって、温故知新であったのである。
参考資料
1) 孔祥林. 孔子家の心, 扶桑社. 1996.
2) 三木稔後援会事務所 徳島市助任本町1-3-1五藤 方 (Tel:0886-54-0823, FAX:53-5182)
3) CD盤. 30CM-443~4, 1995.
◆ たまにはラルゴ
身長180cmで180kgという超肥満体の大学教授クランプは、温厚な紳士だが気弱で内気な性格。デブのために動作も鈍く、大学ではドジの日々を送っている。ある時、彼は恋に目覚め、やせようと決意。専門分野の遺伝子生物学で、開発中のDNAを操作するやせ薬を自分自身に実験してみる。これと同時に自身満々で口八丁手八丁のコメディアンに変身し、歌や踊り何でもござれのキャラクターに変身してしまう。これは、1996年に公開された映画「ナッティプロフェッサー・クランプ教授の場合」の1シーン。特殊メイクやハイテク技術が、底抜け教授を演じるエディー・マーフィーを盛り上げ、デブの悲哀と苦悩を見事に描いた超爆笑コメディに仕上げている。
映画じゃさえないデブも、ことミュージシャンになると事情が違う。先頃、世界的に著名な男性オペラ歌手3人のジョイントコンサートが横浜アリーナで開かれた。巨体を揺すりながらの熱唱はテレビでも放映されたが、彼らの声はすさまじかった。医学的に分析すると、おそらく声帯には程よく脂がのり、うまくビブラートがかかる。さらに、太った身体自体が楽器ででもあるように音を震わせる。もちろん、鍛錬も想像を絶する程のものがあるのだろうが、この体形・デブであることも重要な素質と考えられる。
肥満には、遺伝と環境が影響している。私は、プライマリ・ケア医学の仕事で、東南アジア諸国を訪れる機会が多い。今までに中国、韓国、香港、台湾、シンガポール、マレーシア、ラオス、タイ、ベトナム、インドネシア、スリランカなどに出かけた。暑い気候、スパイシーな食事、仕事の内容、生活習慣などいろんな因子が考えられるが、いつも感じるのは、街角に肥満の人を見かけないことだ。一方、本邦では、同じアジア人種でありながら、肥満が多い。巷では様々なダイエットが溢れ、ダイエット関係の雑誌も多い。これは食生活が肉食主体の欧米諸国並みになり、明らかに食べ過ぎていることが大きな原因だ。成人病(生活習慣病)の発症も低年齢化の傾向がみられており、国民の将来の健康についてつい危惧をしてしまう。
他方、肥満の原因に、視床下部にある摂食中枢と満腹中枢のバランスも挙げられる。脳内ホルモンによる影響もあるだろう。近年、肥満(obesity)に関連する遺伝子のOB遺伝子が発見された。近い将来には、肥満のメカニズムがこれまでとは別のアプローチで解明されてくるだろう。
古くから、身体の形は性格に影響すると言われている。先の映画では、クランプ教授が肥満体の時は優しく気弱な性格。一方、スリムになった時には、自信満々で攻撃的な性格となり、このニ重人格が、彼の心の中で葛藤し、対決する事態となる。肥満の裏には食生活に代表される豊かさが見える。豊かになって、成人病の病巣を身体に抱き、心まで気弱になるのではワリが合わない。日本は戦後五十年以上、世界に類を見ないほどの急速な発展を遂げた。これが、肥満に代表される豊かさの歪みを生んだのは皮肉な話だ。
経済も人も進化すると、進化に伴う弊害に襲われる。バブル経済とその破綻は経済の進化の歪みとも取れるし、成人病も人の進化の歪みかもしれない。これによく似た話は、はるか昔の地球上に見いだすことができる。皆さんは化石でなじみ深いアンモナイトをご存知じだろうか?約四億年前、地球上に出現し6500万年前の白亜紀末、恐竜の滅亡と前後して地球上から完全に姿を消してしまった。アンモナイトは、とぐろを巻いた蛇が石化したものとであるとの説もあり、蛇石と呼ばれたこともあった。その後、フックの法則で有名なR.フック(1635-1703)らによって、絶滅した生物の遺骸であることが正しく認識されるようになった。アンモナイトの名前は、1789年に見つかった化石の形が古代エジプトの最高の神である太陽神アモンの角に似ていたことが命名の由来だと言われている。本邦では、化石の側面が菊の花に似ていることから、菊石類と呼ばれている。
アンモナイトは現生のイカやタコと類縁のオウムガイと同様、殻を背負って殻の中に軟体部をおさめ、体液を出し入れして潜水艇のように海中を浮き沈みして生活していたようだ。身体の先端にあるロートから海水を噴出して泳ぐこともできたとされるが、あまりすばやい動きはできなかったらしい。その胃からは、有孔虫や貝形類の殻、海ユリの破片が発見されており、外洋性のアンモナイトは、プランクトンを主要な食物としていたと考えられる。
身体の大きさは、古生代では径が2-3 cmで中生代では10 cm以上、中生代末には2-6 mのものまであった。進化とともに大型化したことがうかがえる。これとともに、殻の形も変化し、ねじれたり、巻かない棒状やかぎ状になる「異常巻き」が出現、約3億5000万年という長期にわたる進化のドラマの幕を閉じたのである。異常巻アンモナイトの殻は奇怪な形をしたものが多く、絶滅を予告する「遺伝子的消耗」の産物であるとされていた。ある生物が絶滅期に近くなると、異常形態の出現が見られることは生活の特殊化がひどく進んだためと説明されている。
絶滅の理由のひとつは食性の変化で、生活習慣の多様化や生息圏の拡大と密接な関係がある。次に、大型化し動作が鈍くなったために、他の真頭魚類などの動きの速い補食者たちの餌食になった可能性がある。さらに、身体の構造が複雑化し、外界の環境変化に対する適応能力が失われたため、白亜紀に世界的な規模で起こった海進・海退などが原因で絶滅したと考えられている。
進化をめぐる学説には、E.ケッヘルの「段階の法則」(1866年)やL.ドローの「進化限局の法則」(1893年)などがある。前者では、生物群の進化には段階性があり、祖先型→多数の種の分化→発展・繁栄→滅亡へと進む。また後者では、特殊化し過ぎた種族はその子孫を残さずに滅びる、とある。これらの法則は、われわれ人類に対しても当てはまらないだろうか?われわれ新人類は、アンモナイトの1万分の1程度、約5万年の歴史でしかない。しかし、人類はこの間に食生活が変化して体は大きくなる一方で、顎が小さくなり、歯がなくなるなど、既に大きな変化が見られている。今後、学説による死滅までの歴史に刻まれていく人類の変化を思うと、憂うつな気分になってしまう。
絶滅へ猛スピードで突き進む人類の傍らで、中生代から延々、生き続けている種族もある。爬虫類のカメだ。鶴は千年、亀は万年と言われる長寿の象徴だが、なぜ、そんなに長く生きられるのだろう。動きは遅く、攻撃もしない。硬い甲羅の中に、手足を、頭を引っ込めて頑強に身を守る。これらが理由だろうか。この中で、他の種族へ応用が効くとしたら、その速度が考えられる。カメの進化速度は、その動作と同様、とても遅かったのではないかと思う。食性も大きな変化はなかったに違いない。
徳島県には、私の友人で鎌田誠一さんという日本古生物学会会員の化石収集家がおられ、数多くの化石を発見している。カメ類の新種(Amyda species)も発見し認定されるなど意欲的に活動しておられる。彼は、静かな自然の中に身を委ね、谷の細流、小鳥のさえずり、木々のざわめきと一体化し、何百万年、何千万年の時を超えた化石と対話している。太古のロマンを感じながら、風や水、木々の歌を聴く時こそ、心が自然の波長に同調できると、彼は言う。
私たち人類は、種族として長く生きていくために、アンモナイトやカメから学ぶことは少なくない。食生活しかり、日々の営みもまたしかり。バブル崩壊後、今後の日本経済は年率2,3%の低成長時代を迎えている。これはおそらく21世紀初頭まで続くだろう。効率至上主義から、ゆとりや心が重視される時代、slow and steadyをキーワードに、のんびり、ゆっくり。時には立ち止まりながら生きていくのが、真の豊かさかもしれない。
参考資料
1)著者は日本プライマリ・ケア(PC)学会の国際交流委員会委員長。日本PC学会は世界家庭医学会(World Organization of Family Doctors)の一員で、アジア地区で指導的立場を担っている。
2) 春山茂夫.脳内革命vol.1,2.サンマーク出版 1995, 1996.
3) 福田芳生. 古生態図週集・海の無脊椎動物. 川島書店, 1996.
4) 鎌田誠一氏 779-34 徳島県麻植郡山川町字翁喜台213-25 Tel:0883-42-7016
◆ 舞台とうだつ
認定内科専門医会の四国支部世話人代表である板東浩先生が、なんと平成5年12月に全四国音楽コンクールピアノ部門一般・大学の部で最優秀賞を受賞されました。音楽学校の大学院生を相手にこの快挙はとても医者とは思えません。彼にこのような才能があるとは誰も信じないでしょうが本当の話です。その後、彼は音楽活動を行いながら、内科専門医会雑誌に「医学と音楽」のエッセイを書き続け、今回から4年目に入ります。内分泌・代謝学を専門とする医師で、もしかしたら天才ピアニストかもしれない(?)板東先生の今後の連載を引き続き楽しみにしてください(内科学会内科専門医会会長 小林祥泰)。
「本番行きます」。人情映画の第一人者、山田洋次監督の迫力あるかけ声が、のんびりとした田舎町に響き渡る。ここは「うだつの町並み」で知られる美馬郡脇町。徳島市から西へ40キロの片田舎は、町始まって以来の大騒ぎに揺れていた。町のほぼ中心にある古ぼけた映画館。ここを舞台に松竹の正月映画「虹をつかむ男」のロケが進行していたのだった。主演は西田敏行。古い映画館「オデオン座」館主の銀幕活男を演じる。小太りで素朴な主人公のわきを、田中裕子、田中邦衛、吉岡秀隆らの名優ががっちりと固め、涙あり、笑いありの人間模様が繰り広げられる。撮影現場には、おらが町を舞台にした映画の撮影シーンを一目見ようと、大勢の町民や、映画ファンがつめかけた。撮影現場はお祭り騒ぎだ。カットを撮り終えて俳優が休憩すると、観衆のあちこちから「西田さーん」「裕子ちゃーん」と歓声がわき起こる。ボランティアが「自分たちの出番だ」とばかりに、湯茶のサービスや道具の運搬に駆け出す。次の撮影の指示が監督から飛び、スタッフが慌ただしく走り出す。
主人公の銀幕活男が運転しながら、助手席の若者と世間話をするシーンがある。この場面は、別々に一人芝居をして収録し、後でつなげるという手法で作る。このタイミングが微妙にずれるとNG。なぜなら車の外の景色は連続的なものであるからだ。カメラは片一方から取るので、その時、観衆は道路の片方にあっちへこっちへと寄せられる。その時に使われるのが「虎ロープ」。黄色とクロのツートーンカラーのお馴染みのものだ。
「お静かに」。スタッフが多くの観衆にふれまわる。ピンと張りつめた緊張感が走る。ザワザワとした雑音が波のようにスーと引いていく。俳優たちは一瞬のうちに別人となり、映画のシーンへと溶け込んでいく。そこには、まさにスクリーンの中を縦横無尽に活躍する主人公たちの姿がある。スタッフたちは、俳優の息づかいまで収録しようと真剣勝負だ。観客も撮影の成功を祈るような表情で息を飲んで見守る。彼らは静かに佇みながら積極的にロケに参加しているのだ。
まさに、オーケストラの演奏会と同じだ。演奏が始まる前、舞台の上は、楽器の音を合わせるために混沌とした状態になる。これが指揮者がタクトを振り上げた瞬間、空間に漂う様々な音が一瞬にして消失。この時間は、ほんの数秒しかないが実際以上に長く感じられることが多い。その静寂を打ち破るように怒涛のような演奏が始まる。聴衆は一言も発しない、まるで、自分たちが黙って聴いていることが奏者との役割分担にでもなっているように。
コンサート会場には、ふたつの世界がある。一つは舞台の上で、それこそ一糸乱れぬ演奏を繰り広げるオーケストラ。もう一つは、こころの窓を開いて演奏を受け入れる観客。観客と奏者の間には、映画撮影時に、現場につめかけた観衆とスクリーンの中の世界を区切る「虎ロープ」のような、目に見えない「結界」が張り巡らされ、演奏中、両者は決して交わることがない。演奏が終わった瞬間、何よりも堅固なはずの結界は、跡形もなく消え去り、素晴らしい演奏という作品を仕上げたオーケストラと、その作品をずっしりと受けとめた観衆の心はひとつに溶け合うのだ。
ここで、重要な働きをするのが舞台だ。映画では、虎ロープが現実の世界と映画の世界を見事なほどに仕切る。俳優たちは、虎ロープの中で、映画の登場人物になりきり、おそらく、本番前までは視界を埋め尽くしていたスタッフやロープの向こうに見えていた観衆はまったく見えなくなるのだろう。コンサート会場に、突如、演奏の開始と共に現れる結界。コンサートでは、舞台がこの結界の役割を果たすのではないだろうか。
私は、人前でピアノ演奏をすることがある。芸術というよりも芸能に近いレベルだと思ってはいる。しかし、ひとたび、タキシードに身を包んで舞台にたつと、なぜか心地よい緊張感に包まれ、ベストの演奏を目指すことが至上の命題になる。同じ演奏会でも、舞台がないと、視線も心も聴衆と同じ高さになり、リラックスすることができる。サロンで聴衆の表情を楽しみながら演奏し、夜なら傍らに水割りの一杯でもはべらせておきたい気分だ。わずか数cmの高さであっても、舞台の有無は、これほど演奏者の心理状態に影響を及ぼすのである。
演奏者が自分の世界に浸り、自由な心で思う存分の活動ができる舞台。山田洋次監督は、徳島の片田舎にその舞台を求め、俳優たちは、豊かな自然のふところで、スクリーンという舞台の上で、存分に物語を作りあげたのだ。映画の最後の場面には、急逝した故・渥美清さん演じる「車虎次郎」がひょっこり現れる。「寅さん」シリーズは48作を数え、「察しと思いやり」という、日本の文化を、スクリーンの上で、時に濃く、時にさわやかに伝え続けた。寅さんが、山田洋次監督の舞台に華を添え、次の世代へとバトンタッチする。
ドーレミ/ソソラソ/ラレドラ/ソミソファとシがないペンタトニックの旋律だ。この音階で作られた日本の歌はとても多い。このメロディーを聴くと、「寅さん」の笑顔と日本の古き良き時代の思い出が、私たちの脳裏に鮮やかによみがえる。「それをいっちゃあ、おしめいよ」という名セリフとともに。「寅さん」の思い出がそれぞれの舞台風景を演出するのだろう。
「虹をつかむ男」は1997年の正月映画として、無事スクリーンにデビューした。徳島では、映画の制作にかかわったボランティアや、ちょい役で出演した地元住民たちが、連日映画館に押し寄せ、短かったロケの思い出にひたった。私は映画館のスクリーンに映し出される郷土・徳島の美しい風景や脇町のうだつの町並みに、言いようのない懐かしさと一体感を味わっていた。
この映画は、徳島県や地元町村、経済界、マスメディアなどの全面的な支援の下で制作された。ロケや協力態勢の模様は全国に報じられ、地元の徳島新聞では、映画ロケの記事が連日、カラー写真とともに第一面に掲載された。また、「虹をつかむ男」徳島ロケ受け入れ実行委員会などの多くのボランティアの活躍も見逃せない。徳島の人をここまで動かしたのは、日本人の血に脈々と受け継がれてきた義理と人情の心意気であり、きっと寅さんが、ほほ笑みながらバックアップをしてくれていたのだろう。
物語の舞台となった脇町は、江戸時代、阿波藍の栽培と藍染めにより隆盛を極め、商人の町として発展した。今もその町並みは残っており、町屋の妻壁の横に張り出した防火のための袖壁「うだつ」が人目をひく。当時は、裕福な層が、このうだつを上げたりっぱな家を造っていた。相当な建築費を要したために、これを作れないことを、社会的な地位にからめて「うだつが上がらない」と言ったのだ。うだつを上げるのは、自分自身の舞台の上で人生という物語を演じるのに順風満帆の主役になれるかどうかを意味していた。そういう目で見ると、今の時代、うだつがあがらないことは、自己表現という意味で大きなストレスを招くと言ってもいいだろう。
個々の人にとっての「うだつ」は、収入かもしれないし名誉かもしれない。その実現に向かって努力するから人は尊い。自分の舞台をセルフコントロールで作り上げ、「うだつを上げる」自己実現を目指して、精一杯の努力を続ける。「寅さん」「虹をつかむ男」は、我々の内なる舞台に、改めて目を向けさせてくれるのだ。
◆ 自然とコミュニケーション
ギネスブックに掲載か!?
前人未踏の40年以上にわたって続いているラジオ番組がある。TBSの「秋山ちえ子の談話室」だ。世界中を見渡しても、この域にまで達した人はいない。現在も毎日放送されており、今後の記録亢進が注目されている。
1996年12月、緑豊かな徳島の街は、クリスマスのデコレーションで飾られ、ジングルベルの音楽でふんわりと包まれていた。赤や黄色のイルミネーションを纏った街路樹の下では、自然とアレグレットの速さで足が進む。そのリズムに合わせて、心も浮き浮きして踊るよう。ちょうどこの時、11,000回目の「秋山ちえ子の談話室」の生放送が、徳島の四国放送を発信源として全国津々浦々まで届けられた。記念すべき放送が徳島で行われたのは、徳島の地に特別の愛着を持つ秋山先生ご自身からの希望があったからである。
4年前、秋山先生の講演会で、私たちは初めて秋山先生にお会いした。ユーモアを交えながらの巧みな話術に、思わず引き込まれてしまう。あとでゆっくりとお話を伺うと、医療福祉関係のボランティアも多く、障害者の施設の設立などにご尽力されているとのこと。その時から、秋山先生と徳島の信奉者との間に、心のコミュニケーションが始まったのだ。
2年前には、秋山先生は胡弓(こきゅう)の名手と共に徳島を訪れた。徳島には、女性リーダー育成を目的とするグループがある。世界的なネットワークを持つInternational Training in Communication (ITC)というクラブだ。限定30名のメンバーは、音楽と文化を愛し、輝いている淑女たち。ITCは秋山先生を囲んで、「サロン風のお洒落な音楽会」を企画した。
胡弓とは、手拳大ほどの胴体に細い首を持った中国古来の弦楽器で、右手に弓を持って演奏するものだ。ご存じの方も多いだろう。トップアーティストの許 可(シュ・クウ)氏の胡弓を聴くと、壮大な中国の大地に根ずく民衆や、大自然で生きとし生ける動植物の魂の叫びが伝わってくる。圧巻は「鳥のさえずり」。奏者自身がまさに小鳥になりきっているかのような錯覚に陥るほど、宇宙的な悟りの波動が満ち溢れていた。
今回、徳島では、秋山先生の特別記念講演会とともに、青戸 昇氏による「1人ミュージカル」が催された。病弱な女の子と心優しい泥棒の物語。舞台上には1人、そでにはピアノ演奏者が1人しかいないが、音楽と舞台との相乗効果は素晴らしく、観衆の心を揺り動かした。
心身に対する音楽のパワーをよくご存じの秋山先生は、遠い東北、岩手県盛岡市の田舎にある「いきいき村」の名誉村長さんも兼ねている。ここでは、「盛岡市民福祉バンク」活動の一環として、障害者がスタッフと一緒にいきいきと生活しているのである。この美しい自然の中で、盛岡市民と一緒に音楽を聴くための音楽ホールの建設に、秋山先生は東奔西走された。「ホンダ技研」の故・本田宗一郎夫人のさち様のご協力もあり、音楽ホール「風の館」は1996年7月にオープンした。柿落としは、佐藤宗幸さんの独唱。秋山先生は、「生の音響の刺激で人の細胞が目覚めるという変化があるように思われ、ヨーロッパで盛んに研究されている、音楽によるリハビリテーションではあるまいか」と音楽療法の本質を指摘されている。1997年1月には、長年にわたる文化振興に功績により、「都文化賞」が映画解説者の淀川長治さんとともに秋山ちえ子さんに贈られた。
さて、最近話題となっている音楽療法のひとつを紹介してみよう。「自然音楽」である。木、花、草の植物や、風、水、大地、光、星などの大自然界からは、それぞれの生命エネルギーの波動が発せられている。それを音楽に転換したものが、自然音楽で聴けば癒され、歌えばもっと癒されるという。
1995年9月12日に,自然音楽は神奈川県で劇的に生まれた。当時、15歳の少女の指が何かに憑かれたように動きだして、ピアノを演奏し始めた。その日だけで、立て続けに数十曲。これは作曲ではなく、「伝曲」の始まりであったのだ。曲は1年間で500を越え、CDも発売されている。
その女性は、現在17歳の風緒輪(かぜお めぐる)さん。幼少の頃より感性が豊かで、植物の呼吸や気持ちを感じとることができたという。中学生の時、成績はトップクラスでどこからみても聡明でしっかりした彼女は、宮沢賢治の研究者グループと出会った。その後、植物や風、川、海、石からの波動や音楽がよりはっきりと感じられるようになり、妖精の姿も見えるようになったという。
これらの症状は、現代医学のものさしで計ると、幻聴や幻視と判断される。五感以外のものが認識できない大多数の人々を基準にして、第六感的なものがあれば精神病と診断されてしまう。すなわち、天才と精神病者の区別がついていないため、天才は往々にして精神病の枠の中に閉じこめられるのである。幻聴、幻視は宮沢賢治にもあったとされ、多くの童話や詩には、それが一杯書き込まれている。これらが新鮮で幻想的と評価されるのは、五感でとらえきれない「何か」の素晴らしさが認められたためだろう。賢治は、1896年に現在の岩手県花巻市で生まれ、自由に林野を散策したり山や丘陵を跋渉するなど、自然と交感していた。盛岡高等農林学校に首席で入学し、地質の調査や研究が高く評価され、助教授への推薦の話もあったほどだ。その後、4年間花巻農学校の教諭を勤めた後、20名ばかりの同士と新しい農村の建設を目指す。羅須地人協会を設立し、稲作指導や肥料設計などで多忙をきわめた。科学者に加えて、宗教者・詩人・音楽家でもあった賢治は、水彩画を描いたり、幻燈会やレコードコンサートを企画。4週間上京した際には、図書館やタイピスト学校で勉強し、セロ、オルガン、エスペラント語を習うなど奮励ぶり。ベートーベンなどの曲に歌詞をつけている。種山ケ原をこよなく愛し、詩を幾篇も書いた。透明で清々しい風の天使が高原を駆け抜けるイメージが、ドボルザーク作曲の「新世界交響楽」第2楽章にぴったりと一致。そこで、賢治はそのメロディーをこの詩の曲とした。
<種山ケ原>♪ 春はまだきの朱(あけ)雲をアルペン農の汗に燃し縄と菩提樹皮(マダカ)にうちよそひ風とひかりにちかひせり・・♪
ほかに、彼が大正7年に作詞作曲をした歌が残されている。
<星めぐりの歌> ♪あかいめだまのさそりひろげた鷲のつばさあおいめだまの小いぬひかりのへびのとぐろ♪オリオンは高くうたひつゆとしもとをおとす・・♪
不思議なことだが、この歌詞には、大正13年から書き始めた「銀河鉄道の夜」の旅の秘密が塗り込められているという。銀河系の星座をめぐって、「本当の愛を尋ねる旅」という意味があるそうだ。これらのことから、風緒輪さんと宮沢賢治は、花鳥風月の波動と同調し、自然に語り合えるとみることができる。賢治が、遠い銀河の彼方から言霊(ことだま)を送り、風緒輪さんが聞き取って伝曲しているのではないだろうか?
私たちは時に、インスピレーションを感じることがある。inspirationとはinspire(吹き込む)という意味で、私たちを守ったり指導して頂いている神様や仏様が、耳元で囁いて脳の中にアドバイスを吹き込んでくれるのかもしれない。これを如実に表してい